下宿屋からホテルへ


イルクーツク駅構内
・・・はて、こんな写真撮ってよかったのかな
 シャンパンの栓を抜いて、ちょいとリッチな気分でロシア号での最後の食事を済ますと、車内はそわそわしてきた。シベリア鉄道沿線で外国人に開放されている街はハバロフスクの次がイルクーツクとなる。だからこの「走る下宿屋」も3日間銭湯に行けないわけで、モスクワまで行く観光客も一度イルクーツクで降りてホテルに泊まり、バイカル湖を見たあと再び列車の旅を続けるパターンが多い。
 身支度を整えると、デッキで旦那車掌に出っくわした。ちょうど彼からもらったバッジをつけた帽子をかぶっていたので、バッジの礼を言い、100円ライターをプレゼントした。ソ連ではチップが不要で、むしろ現金を渡すのは失礼とされると聞いていたので、ストッキングやライターのような「ちょっとしか物」を用意していたのだが、飛行機に乗るのでライターは数多くは持ち込めなかった。が、団体旅行だったので実際にこれらの物を渡す機会は少なかった。

 さて、イルクーツクだ。自分も荷物を持って降りなければならないのだから、これまでのようにのんびり眺めてはいられない。僕のいた12号車はモリソン夫妻も含めて全員がここで降りた。奥サン車掌もこの時ばかりは正装して見送ってくれた。ダスヴィダーニャ(さようなら)。
 あっという間の3日間だったが、それでも降りてみると「やれやれやっと着いたか」という言葉がつい口から出てしまう。我々は着いた着いたと騒いでいるが、ロシア号はモスクワまでさらに3泊の旅を続ける。車掌も、食堂車のナターシャも、また新しい客を迎えて仕事が続く。ターニャもかまってもらえる相手がいなくなって寂しくなるだろうな。また誰かに遊んでもらうんだぞ。

お世話になりました
モリソン夫妻も列車を降りる
 ポーターに荷物を任せて、インツーリストのバスでアンガラ川の対岸にあるホテルへ。10分とかからなかったが、車窓から見た街の感じは、ハバロフスクに比べると風格を感じさせた。ハバロフスクは良くも悪くも兄ちゃん風だったが、こちらは大人の雰囲気だ。
 マル添とルーダがチェックインを済ませてきて部屋割り、そして朝食をはじめとする翌日のインフォメーション。それはいいが、今日の夕食はどうなってるんだと訊こうとして、さっきロシア号で食べたことを思い出した。その後こうやって、あわただしく動き回ったし、日はまだ高いしで、すっかりまだ食べていないと思いこんでしまっていた。
 ルームキーのホルダーは木製で、バイカル湖を形取った小さな金属片がはめ込まれてなかなか洒落たものだった(ハバロフスクのは安っぽいプラスチック板で、皆で靴べらと呼んでいた)が、鍵穴になかなか入らず、ドアの前で数分費やす。部屋に入ると、ハバロ同様バスルームを素早くチェック。バスタブなし、洗面台のボウルに栓なし、お湯は出る。『地球の歩き方』にも椎名サンの本にも「便座は木製」とあったが、実際はペナペナのプラスチック製、きっと高い階にある眺めの良い部屋ではそうなんだろうなあ。まあこれでも着いてないよりマシか、と座ったら尻がはまりそうになった。デカケツ民族め。
 この時は気づかなかったが、薄暗くなってきたときにルームライトのスイッチを探したが見つからない。見つからないわけだ。天井を見たら照明がない。壁に2つ付いたベッドランプと、デスクの上のスタンドだけだ。サーチライトよろしくこれらのライトの向きを調整して部屋を照らすという・・・つまらんことをやっていないで早く寝ろということか。

 僕にしては珍しく気乗りがしなかったので、外に出てみようと言う前田サンの誘いを断って部屋に残る。何となく一人になりたかったのだ。そしてこれまた何となくその気になって洗濯を始めてしまった。
 今回の旅に際して、というほど大袈裟なことではないが、僕は着古した下着ばかりを持って来ていた。着替えるそばから捨ててしまっても惜しくない物で、そうすることによって汚れ物を持ち歩くことなく、なおかつ少しずつ荷物を軽くしながら旅を続けようという計算だった。ところが、ソ連に着いた初日、ハバロフスクのホテルで一人のポーターらしき男性が札幌オリンピックのマークの入ったトレーナーを着ているのを見てしまったのだ。札幌オリンピックといえば1972年に開催されたわけだから、もう17年も前のことになる。彼がどうやってそのトレーナーを手に入れたかは知らないが、そんな古い物を大事にして、と言っても保存しているのではなく、仕事着だか普段着として使っているのを見て、少しぐらい古くなったからといって下着を捨てて歩くことが恥ずかしく思えて、結局イルクーツクまでポリ袋に入れて旅のお供としていたのだった。
 最初は簡単に水洗いだけのつもりだったのが、バッグから洗剤(いちおう食器用と衣類用の両方を用意していた)を出して本格的にゴシゴシやりだすと、洗面台のお湯が真っ黒になった。このピンクのシャツはロシア号の中ではほとんど着なかったんだけどなあ。

手帳の中は怪しい行状録でいっぱい
 バッグの中を片づけたり、りもこんに手紙を書いたりしているうちに、ようやくその気になってきたので夜の街を歩いてみることにする。といってももう10時近い。たいていの店は閉まっているし、あたりは暗くなってきたしで観光をして歩くような時間じゃない。
 足の向くままに適当に角を曲がったりしながら歩いていたら、目の前に日本語があった。「金沢通り」・・・イルクーツクは金沢市と姉妹都市だったのかなあ。 (確かにその通りだった。翌々日の朝、もう一度この場所を探しに来たとき、この先の建物の壁に説明文が刻まれていた)
 しかし、足の向くままに歩いていると、僕は無意識のうちに裏通りに入り込んでしまう傾向がある。「シベリアのパリ」と呼ばれる街に来たにしちゃあ立派な建物がないというのは僕の歩き方が悪い。だが、どっしりとした丸太作りの民家は夜目にもなかなか風格があった。
 とある家の前で数人の男たちが立ち話をしていた。街灯もない暗い道で彼らの脇をすり抜けるのは、たとえこれが日本でも緊張してしまうものである。さり気なく意識しないように歩いたのだが、彼らは話すのをやめ、僕に向かって「おい」と声を・・・かけたりなんかすると、この先の話がスリリングになるのだが、何事もなく通り過ぎてしまった。「コンバンハ」くらい言えばよかった。

 ホテルに帰ると前田サンも戻っていた。地下のバーに缶ビールを買いに行く。ハバロフスクではホテルでもベリョースカでもレーベンブロイしかなかったが、ここではステラ・アルトワというベルギーのビール。日本にも輸入されているということはあとで知ったが、僕には初めて見る銘柄だった(ルーベンの森に流れる水とチェコのホップを使っているらしいが、確かに旨かった)。銘柄を選べないのはきっと例の「これでいい」の法則のせいで、ヨーロッパからビールを積んできた貨車を「ビールならどれだって同じ」と街ごとに一両ずつ切り離していったに違いない。今夜はこのホテルにドイツ人の団体も泊まっているはずだが、彼らは「ロシアにおけるビール事情」に怒り狂っているのではないだろうか。
 などと考えながらビールを抱えてエレベーターに乗ったら、一人の外国人がちょっと待ってという感じで跳び乗って来た。僕のビールを見ながらニヤッとしたので、わざと日本語で「部屋で飲むんだ」と嬉しそうに言うと意味は通じたらしい。だが日本語だということまでは判らなかったのか、
「KOREA?」
「No、Japanese」
 そうか日本人か、オレも一度行ってみたいと思ってるんだとあわてて取り繕ってペラペラしゃべりだす。彼のフロアに着いて降りたあとも、ドアが閉まるまで話しかけてきた。調子のいい野郎だ、オヤスミ。

 さて、明日はいよいよこの旅のもうひとつのハイライト、バイカル湖だ。それなりの支度もある。手紙の封をするなど、翌日の準備をして寝ることにするか。揺れないベッドは何だか落ち着かないが。