ついにバイカル湖


バイカル湖はまだ氷結していた
 昼食を終え、通路を歩いていると例によってターニャが通せんぼをしてくる。食後の腹ごなしに少しかまっていると、どこかで「バイカル湖だ!」という鋭い声がした。
 外に目をやると(この車両は右側が通路になっていた)びっしりと氷に覆われた湖面がいっぱいに広がっているのが見えた。小さな世界地図にさえ、それと判る形で描かれるほどの湖だから、見渡す限りに広がる様子はまさに海だ。流氷に埋め尽くされたオホーツクの海だ。バッグに入れた原田泰治サンの本の中に描かれている北浜駅の風景を思い出した。
 前にも書いたが、僕は学生時代、毎年2月になると北海道に行き道東を旅していた。網走郊外の北浜駅はトーフツ湖の白鳥を見に行くときに下車する駅で、僕にとって懐かしい思い出のある駅なのだが、それが原田泰治サンの筆によって『海辺の駅』という作品になって発表されたのを見て(朝日新聞・日曜版)、僕は原田サンのファンになってしまったのだった。
 釧路から列車に乗って、ようやく網走に着くんだな・・・シベリア鉄道の旅をしばしば釧網本線の旅に見立ててはいたが、ここまでその通りとは。だが、釧網本線なら3時間で乗ってしまえるが、こちらは3日がかりだ、スケールが違う。
 それで思い出した。毎年北海道に通っていた頃、実際にやったこともないくせに「釧網本線なら一日に一往復半しても飽きない」と吹聴していたが、決してホラではなかったことが、今、自分で判った。ハバロフスクまで汽車で帰れと言われても、ニコニコしながら乗ってみせるぞ。

まさに冬のオホーツク海
 食い入るように車窓の景色に見とれていて、ふと気がつくと足元でターニャがもっとかまってもらいたくてじゃれついている。
「ターニャ、ほら見てごらん、バイカル湖だよ」
 彼女を抱き上げて窓に押しつける。ターニャの父親も傍らにやって来て「バイカル湖だ。これがバイカル湖だよ」と語りかけた。彼の発音は「バイ〜ル」と聞こえた。「カ」にアクセントを置くのが正しい言い方らしい。
 乗客が皆無言で外の景色を眺めている頭の上を、車内放送のロックが乾いたメロディで流れていた。何だか白日夢のような白々とした雰囲気が通路に漂う。醒めているのはターニャだけだ。「外の景色がどうかしたの? そんなことより、ねえ、遊ぼうよ」・・・彼女の目はそう訴えていた。

 しばらくの間9号車の通路で立ちつくしていたが、自分のコンパートメントに戻ることにした。つい一瞬たりとも見落としてなるものかと貧乏根性を出してしまうが、バイカル湖畔は数時間かけて走る。ちょっとくらい目をそらせたからって、ちっとも惜しくないのだ・・・と判ってはいるのだが、通路を歩いている間外を見られないのが残念に思える。どうってことないのにねえ。
 途中のデッキで、これまで何度か駅や通路で顔を合わせるたびにニコニコしていた丸顔の車掌が三婆を抱きかかえていた。と言っても、べつに嫌らしい振る舞いに及んだわけではない。走る列車のドアを開けて決死の撮影をしているのを後ろから支えているのだ。この車掌、本当は隣の車両が受け持ちらしいのに、三婆にもこれまでいろいろ親切にしてくれていたらしいのだが、ここまで大胆なサービスをするとは。
 12号車に戻ってモリソン夫妻のコンパートメントを覗くと、さっきの窓拭き作戦は大成功だったよとでもいうように微笑んでくれた。
「窓のそばに寄ってください、写真を撮るから。あとで送ってあげましょう」
「オー、ワンダフル」
 これまでモリソン夫妻と書いてきたが、実はこの時初めて名前を聞いたのだった。オーストラリアのクイーンズランドに住んでいるそうだ。
「オーストラリアに来たら、会いに来てちょうだい」
「こっちも。日本に来たらぜひ連絡してくださいよ」

原田泰治サンの『海辺の駅』を連想した
 しかしまあ、本当にオホーツクの海だ。これで目の前にキタキツネが飛び出してきても、ちっともおかしくない。
「シベリア風の民家か、ロシア文字の入った看板を入れて写真を撮らないと、日本に帰ってからバイカル湖とは信じてもらえないぞ」

 バイカル湖に見とれてばかりもいられない。そろそろ部屋を片づけよう。結構みんなバッグの中におつまみのたぐいを忍ばせていて、3日間のゴミの量も多い。テーブルの下に置いていた大型のポリ袋がかなり膨らんだ。コーヒーを飲むたびシェラカップはすぐにトイレットペーパー(もちろん日本から持参したものだ)で拭くようにしていたのだが、缶詰の中身を入れたものは油でベトベトだ。洗面所で洗ってくる。なるほど、栓代わりのゴルフボールは役に立った。
 イルクーツクの一つ手前、スリュジャンカに着く。ロシア号の編成には興味を持たないようにしていたが(後ろの方にいたので、長い編成の前まで行くのが億劫になる)、これが最後のチャンスだから先頭まで歩いてみた。食堂車より前はロシア人専用で、しかも運賃も安い開放式3段寝台の車両なので、そのせいかホームでくつろぐ乗客の雰囲気がどことなく違うようだ。のこのこ歩いて来る僕を不審とも珍しげとも言える目で見ている。先頭では機関車の付け替えをしていた。ゆっくり近づいてくる機関車をカメラに収める。ホームのはずれで、ヤードが見渡せる場所だから写真撮影はまずいかなと思ったが、特に咎められなかった。まあ、こちらも念のためにペンタックスではなく、ちょっと目にはカメラに見えない「写ルンです」を持っていったのだが。機関車はゆっくり、実にゆっくり近寄ってきてショックもなく吸い着くように連結した。これまで何度も機関車が替わっていたのはカーブを利用して前を見たときに知っていたのだが、どこで付け替えたのか気がつかなかったのも無理はない。