何もかもが目新しく、飽きない(ロシア号の1日目)


昼間、上段のベッドは
跳ね上げておく(左側)
 考えてみれば寝台車なんて久し振りだ。どうせ時間はたっぷりあるのだから、ゆっくり指を折って数えたら何と16年振りだと。それ以来、船の寝台というのはあったけど、あとは座席車でばかり寝ていたのが突然4人用のコンパートメントに寝るという成り上がりぶりだ。元が貧乏性だから、こんなに贅沢をしていいものだろうかと足が震えてくる。僕はビジネスホテルに泊まったときでさえ落ち着かなくて困るのだが、ユースホステルと同様ここも適度にざわついているので、その点では気が休まる。

 コンパートメントの様子はイラストを載せるので、ちょっと見にくいかも知れないが、そちらを見てもらおう (WEB版註:オリジナルの私家版では『地球の歩き方』の挿し絵を流用しましたが、発行元のダイヤモンド社の権利を侵害する恐れがあるため、ここでは不掲載とします) 。ソ連の鉄道は、車両が大きいのでもっと広いかと思っていたが、意外に狭いというのが第一印象だ。もっとも、車両そのものも見たところそんなに大きいとは思わなかった。この先イヤというほど貨物列車とすれ違うことになるのだが、機関車とタンク車を見たときにはさすがにでっかいと思ったものの、あとは日本の貨車を見ているような感じだった。尺度の感覚が早くもロシア風になってきたのかな。
 ポケットから電卓を出してベッドの幅を測ったら(どうして電卓でそんな器用なことができるかというと、僕の電卓には距離計測用のコロがついていて、物差しやマップメーターとしても使えるのだ)65、6cmぐらいであった。日本では、以前には52cmというのもあって僕も乗ったことがあるが、今は最低でも70cmである。確かにあまり幅が広いと椅子として使いにくくなるので、昼夜をわかたず走り続けるロシア号としては、そのへんの兼ね合いが難しいのだろう。しかし、ロシア人のオバちゃんはデブだからなあ・・・。
 下段ベッドを跳ね上げると下は物入れになっており、上段ベッドも跳ね上げておくことができる。固定方法はベッドをよいやっと持ち上げておいて、壁に埋め込まれた小さな爪を起こすだけの簡単な仕掛けなのだが、ベッドの重量を預けられてもよく折れないものだと感心した。床には絨毯が敷かれているが、これは気が利いているようでいて実は間が抜けている。絨毯ごと滑ってしまい、何度も転びそうになった。窓の中程に針金が張ってあって、白いカーテンがついている。それは何だかとてもつつましく感じられた。もちろんこれだけでは上半分をカバーできないばかりか、朝早く目が覚めてしまうので窓全体を覆う巻き上げ式のブラインドも用意されていた。2人室ではこのブラインドは厚手のカーテンに替わる。
 車内放送用のスピーカーにはボリュームがついていて、絞っておいたので何も聞こえなかったが、車掌のアナウンスというよりもラジオ放送用のようで、音楽や沿線の国や街の解説をしているらしい。聞こえもしないのによく判るなと思うだろうが、通路の壁に掛かったラックに英文の『ソビエト国鉄利用者の皆さんへ』というのを見つけて、その冊子に、多分そうだろうと思われることが書いてあったのだ。このラックにはそのほかいくつかソ連の政策宣伝みたいなペーパーバッグ判の本が置かれている。これは駅や空港の待合室などにもあり、ハバロの駅では日本語で「ご自由にお持ちください」とまで表示してあったのだが、英語、ドイツ語、フランス語・・・朝鮮語のもあったくせに日本語のが品切れで、僕はフランス語で書かれたソ連の国勢要覧と、英文でスターリンのことが書かれた本をバッグに入れていた。もちろん読めるはずがない。
マル添が持つ虎の巻(地球の歩き方)
参加者も同じものを持っている
 天井灯(ルームランプ)と枕灯がついていて、それぞれスイッチもあるのだが、元を車掌がコントロールしているらしく、昼間はいくらスイッチをいじってもつかなかった。
 通路には日本の寝台車両と同様に折り畳み式の椅子がついていたが、使う人はほとんどいなかった。昼間座っているぶんにはコンパートメントは充分に広いし、室内はもとより通路も禁煙なのでこの椅子の使い道がないのである。通路に出てくる乗客はほとんど皆、立って窓の外を見つめていた。

 ハバロフスクを出てしばらくすると、車掌が窓を開けにやって来た。ロシア号の通路の窓は何枚かおきに3分の1ほど下降して開くようにできているのだが、車内の空調を維持するためにも、本来開けられるのは迷惑なのだろう。それに、これまで冬だったシベリアで窓を開けるバカがいるはずがない。窓は周囲の枠ごと何本もの三角ボルトで固定されていた。車掌はキーレンチを持って来て一本一本ボルトを緩めてゆく。ちなみに、コンパートメントのドアロックやデッキにある制御盤の蓋はすべてこのボルトが使われていて、車内ではこのキーレンチがオールマイティに使えるようになっていた。
 ボルトを緩めて力いっぱい窓を引くが、開かない。どこかのボルトがまだ効いているらしい。またレンチを使う。なかなか開かないので、周りで見ている僕たちもだんだんのめり込んでゆく。ようやく開いたときには思わず「ハラショー!」と声をかけてしまった。それと同時にものすごい埃が舞い上がった。やっぱり我々観光客のために半年ぶりに窓を開けてくれたに違いない。ガラスの汚れがひどかったので、これで写真撮影が楽になる。
動き出して数時間は
誰もが通路から離れなかった
 さっそく窓から顔を出してみる。冷たい中にも春の訪れを感じさせるほのかな暖かさが心地よかった。
 車掌が戻ってきたので顔を引っ込めると、彼が僕の顔を指さして笑った。どうやら顔をサッシでこすって汚れがついたらしい。僕も指で頬をこすって笑った。ひとしきり笑ったあと、彼は持って来た雑巾でサッシの汚れを念入りに拭き取った。なかなか親切な人だ。そればかりではない、そのあとすぐにコンパートメントに入ってきてバッジをプレゼントしてくれた。丸いバッジを指さして「バム」と言ったので、これは第2シベリア鉄道(バム鉄道)のかな。四角いのはどうやら沿線の駅の名が書いてあるようだ。ほかの車両にいた仲間のところにはこんなサービスはなかったらしいから、これは車掌の自由裁量でくれたりくれなかったりするのかも知れない。

 柳瀬氏が「ずっと汽車に乗っていると言ったら本を持って行けと勧められて、これを貸してくれた」と言いながらバッグの中から地元の公民館のゴム印が押された文庫本を引っぱり出した。宮脇俊三サンの『シベリア鉄道9400キロ』だ。僕もここに持って来てはいないけど、この本は何度も読んでいるし、車内で言葉を交わした連中の話にもこの本で得た知識と思われるものがいくつもあったので、シベリア鉄道に乗る上でバイブルになっているのかも知れない。だが、切符を手配して一気に乗ったこの本もいいが、種村直樹サンの『シベリア鉄道気まぐれ列車』はナホトカ航路経由でモスクワまで行くパッケージツアーに参加しての旅で、イルクーツクにも下車してバイカル湖にも寄っているので、我々の旅に似た雰囲気が出ていて楽しめる。ただ、この話は『気まぐれ列車の時刻表』という本の中に収められているので、本屋で背中だけを見ていたのでは判らないが。

 12号車の乗客は、僕たち男6人の他にオーストラリア人の初老の夫婦(隣のコンパートメントで前田、南田の両名と相部屋になった)がいて、あとは日ソ旅行社のツアー客で、早い話、圧倒的に日本人だらけであった。シベリア鉄道に乗るのが目的で来ている連中ばかりだから、皆通路に立って外を眺めていて、これが用務客が多いと発車後しばらくたってあたりが落ち着くとたいてい自分の席におさまるものだが、いつまでたっても窓から目を離そうとはしなかった。『日本沈没』という映画のラストシーンも、難民となった主人公がこんな風にシベリアの大地を見つめていたのではなかったっけな。
湿地帯の原野を行く
 窓の外には、その時々では絶えず変化しているものの、全体的に見るとずっと変わらぬ風景がゆっくり流れていた。どこかで見た景色だと思ったら、根室本線の厚岸あたりの風景によく似ている。そうかそうか、ハバロフスクで浜中を思い出したのだが、この列車は浜中から釧路に向かっているのだ。そう考えたら本当にそう思えてきたので可笑しくなった。だが、当然釧路に着くべき時間になってもそれらしい街は現れず、列車はいつの間にか釧網本線に入って標茶あたりの風景の中を走っていた。

 ハバロフスクを出るときすでに40分ほど遅れていたのを取り戻そうと思っているのか、ロシア号はかなりの速度で走っていた。試しに測ったら90km/h以上出ていた(翌日、平常ダイヤに戻った頃にもう一度測ったら75km/hだった)。自分が乗った列車のスピードをどうやって測るかは、鉄道好きなら知っているだろうが、知らない人のために説明する。
 線路脇には1キロごとにキロポストというのが立っていて、このキロポストとキロポストの間を通過する時間(t秒)を測れば、あとは計算機をポケットから出して[時速]=60÷(t÷60)=3600÷t という簡単な計算だ。今度電車に乗ったらキロポストを見つけてやってみるといい。
 シベリア鉄道のキロポストはモスクワに向かって左側に大きく判りやすく立っていた。これには起点からの距離が書かれているのだが、なぜかソ連の鉄道のは表と裏で数字が違っている。すなわちモスクワに向かって見るときの方がウラジヴォストークに向かって見るときよりも1キロ多い。100メートルごとに立つ補助ポストも同様で、このことはシベリア鉄道について書かれた本で予備知識を得ていたが、それでも実際にキロポストを過ぎて次に「10」と書かれた補助ポストが目の前に現れると面食らう。日本の感覚では「9」が来るのを期待しているのに。そして、当然のことながら「2」の次に「1」がなくて、いきなりキロポストだから、あわててストップウォッチを止めなくてはならない。

「缶切りありませんか?」と前田氏が入って来た。長い汽車旅に備えてハバロフスクで缶詰を買い込むあたりはなかなか気が利いていると感心したのだが、開ける道具がないとは。僕のアーミーナイフが活躍し、試食会が始まる。
 最初に開けたのは魚の卵がぎっしり詰まっていて、食べてみるとこれはタラコだ、なかなか旨い。熱いご飯にのせて食べるといいだろうなと皆の感想が一致する。ラベルのロシア語が読めないので勝手にタラコタラコと呼んでいたのだが、通りかかった例の三流スパイ風ガイドに尋ねると、これは日本にいない魚でミンタイというらしい。
「ふうん、ミンタイねえ。ミンタイコか・・・明太子? やっぱりタラコだ」
 もうひとつの缶詰は、生の魚をそのまま熱処理もせずに塩と一緒に油漬けしたようなやつで、これは相当生臭かった。

 トンネルをくぐる。シベリア鉄道は原野の中を走るものというイメージがあったので、これは意外だった。トンネルを出たらどこかのコンパートメントから声が聞こえてきた。
「トンネルの上に、銃を持った兵隊がいたよ」
 さもありなん、である。鉄道を国防上の重要施設と考えているならば、当然トンネルは重要警戒地点である。とすれば、写真撮影が厳しく禁止されているあそこはどうだろう・・・ロシア号が川を横切るのを待った。ありましたありました。鉄橋のたもとには監視所があって、やはりここにも銃を持った兵士が立っていた。直立して列車の通過を見送る姿には不気味なものを感じたが、すぐ近く、土手の下に休憩所みたいな小屋があって、きっとそこでお茶を飲んで一服するんだろうなと思うと少しホッとした。ちゃんとした作りの鉄橋は皆こうなっていたのだが、今は人工衛星から立ちションを発見できる時代だ。地球の裏側から誤差数メートルでミサイルを落とせる時代だ。のこのこ鉄橋を爆破しに来る秘密工作員なんているわけがない。まったく無駄な存在だと思うのだが、この国は「働かざる者食うべからず」が原則だから、政府だって職場を作ってやる義務があるのだろう。つまりあれは雇用政策失業対策ということに決まった。
鉄橋のたもとにある監視所
銃を持った兵士が立っている
 しかし、撮影禁止駄目ニエートと言われると逆らってみたくなるのが人情だ。誰かが「今、鉄橋の写真を撮りましたよ」と言うと、もう堰を切ってしまう。
「この車両は外国人ばかりだし、車掌が見てなけりゃ大丈夫でしょうなあ」
「写真を撮ったからといって、向こうの兵士が発砲してくるとも思えませんし」
「でも、ロシア号の何両目といって次の駅に通報が入るかも知れませんよ」
「なるほど、それはありえますねえ」
「しかし、こうなると鉄橋はどうでもいいから、あの兵士の写真が欲しいね。それもアップで」
「まったくです。あっ、また鉄橋です・・・ん? あの監視所には誰もいないや」
「サボッてるな、けしからん。当局に言いつけてやるぞ」

 バカなことを言っているうちにようやく夕食となる。数時間ぶりに我々のメンバーが顔を合わせたところで、いい機会だからとそれぞれ自己紹介することにした。僕は人の顔と名前を覚える能力が足りないので、これだけでツアーの全容や参加者のプロフィールなんか判らないのだが、一応名前ぐらいは書いておこう、どうせ個人的な『お手紙通信』だ。それにもうすでに何人かは本名を出している。 (WEB版註:HTML化にあたって、日本人の登場人物はすべて仮名にしてあります)
 男性は、まず最年長の柳瀬氏。いたって陽気な人だが、酒を飲んで調子に乗りすぎてしまうことがままある。以後、長老と呼ぶことにしよう。あちこち見て歩いて見聞を広められることを思えば旅行で使う費用なんて安いもんですと言い切る「ビール50本」の河野サンは、いつも貴重品を入れた小さなポーチを肩から斜めに吊していた。カメラだろうがパスポートだろうが平気でそこらに置きっ放しにする僕とは対照的に慎重な人である。前田氏は関西からの唯一人の参加者。新潟まで来るときは飛行機だったが、この旅を終えると夜行列車で大阪に帰るという。福知山の社宅に単身赴任中とかで、さっきの缶詰の一件も何となく普段の生活がにじみ出ているようだ。岸本クンは浦和の会社員。ソツのない好青年で、あとで女性たちから『お坊っちゃま』というアダ名を奉られた。南田クンも会社員。出身は新潟の村上だが現在は練馬で一人住まい。旅が終われば実家に寄らずにそのまま東京へ戻るとか。新幹線を使えば村上へ行くより早く東京に着くもんな。彼はテーブルに着くといきなり料理の写真を撮った。この僕でさえ、もう少したって雰囲気が落ち着いてからと思っていたのに・・・。それに僕が加わって、以上男性6名。
 対する女性陣は岡林、大川、白井の元気なオバさん三人組、通称『三婆』。この三人の車両で日本人は他にいない。心細いかと思ったら「国際列車の雰囲気がたっぷり味わえる」と、ますます元気だ。学生時代の仲良し四人組が勤めてからも仲良く付き合っているという感じなのが浅田、中川、山本、秋本。浅田サンは佐知子という名前なので、早速サーシャというロシア名がついた。中川サンは我々の一行で唯一人ビデオカメラを持っていたが、税関でもチェックされたように目下ソ連はビデオに神経を尖らせていて、彼女もこの先の駅で「ニエート」をやられた。この四人組と同世代で、こちらは単独参加だったのが太田サン。外国に行くなら土産は酒だ、と言う単純な友人だか上司に恵まれたお陰で、新潟の免税店で買ったカミュを重そうに終始持ち歩いていたのは気の毒としか言いようがない。あと二人は柴野、北山の埼玉組。北山サンは「子供を誘ったけど、ソ連はダサイからいやだと断られた」と言っていたが、見方によってはこの子供の意見は的を射ている。

食堂車のメニューは意外に良かった
前日のホテルよりも旨い
 少し話はそれるが、旅行社のパンフには、片隅には例の「ソ連の事情により」という脅し文句が書かれていたが、パッと目につく場所には客寄せの美辞麗句が並べられている。試しに引き写してみると「あのオリエントエキスプレスも通ったシベリア鉄道。誰でも一度は乗ってみたい憧れのロシア号。優雅なるシベリアの大地を突っきり、バイカル湖畔を走り大河を渡る。コンパートメントはあなたのもの。列車の旅で新しい友情の輪はもちろん、言葉は身振りの国際語でOKです」ときたもんだ。はて、オリエント急行はイベントで日本へ持ってくる時の回送車として走ったのではなかったか。これを読むとロシア号もフォーマルウェアを着て乗らねばならない「走るホテル」に思えたりもするが、帝政ロシアじゃあるまいし、過剰に期待すると「走る下宿屋」との落差にがっくりしてしまう。北山サンは心なしかしょんぼりしているように見受けられた。

 さて、くどくど書いているとせっかくの料理が冷めてしまう。動く列車の中で調理(あくまでも調理だ。電子レンジで温め直すそこいらのへなちょこレストランとは違う)することを思えば上出来だろう。それに前夜のホテルのことを考えたら、これは列車食堂というハンデなしでもこちらが上だ。とびきり豪華というわけではないが、旅に出たからといってごちそうばかり食べていたのでは身体を壊してしまう。家庭で「おっ、母さん、今夜はごちそうだね」というくらいがちょうどいい。でまあ、こういうセリフのあとには「一本つけてよ」と続くものだが、我々にだって「ビール50本!」がある。マル添が食堂車に話をつけて冷蔵庫を使わせてもらったので、いっぺんに全部は無理だが、食事の度に冷えたビールが出てくることになったのである。新潟に来る新幹線がビールの飲み納めかと覚悟を決めて日本を出てきたのだが、こんな嬉しい誤算はない。ライ麦パンはホテルのものより酢っぱ味が強く、紅茶は正調ロシア風のグラスに入っていて(ホテルのは普通の陶器製ティーカップだった)、個人的な味覚の問題もあるだろうが、僕にとってはロシア号の方がホテルのメシより本格ロシア風でずっと上だということになった。
後方の車両にいたので
こんな写真ばかり撮っていた

 食後も窓の外を見続ける。夜中に迎える時差に備えて時計の針を1時間送らせていたし、列車はモスクワ時間で走っている。そして太陽はまだ沈まない。いったい、時間って何だ。単なる取り決めでしかないじゃないか。今の僕にとっての取り決めとは、明日の朝食の時刻だけだ。

 ようやく日が沈むと、さすがに外を見ているのもつまらなくなったのでベッドに横になることにした。上段のベッドには転落防止用のベルトがあるはずで、事実それを取り付けるためのフックもあったのだが、それらしきものは配られなかった。大丈夫だろうと思ったが、いちおう念のためにロープを張っておく。ベッドの長さは190cm(長さを測ったときの話は別に書く)、身長170cmの僕には充分なはずだが、頭がつかえるのを嫌って少し逃げるので、その分足がつかえた。横の壁とベッドと、ベッドを吊っている鎖が作る三角形に足がすっぽり入って、これが転落防止にならなくもない(しかし、ヘタすると頭から落ちることになる)。枕灯を頼りにこの日の出来事を手帳に記していたらお坊っちゃまが帰って来た。
 彼は女性たちに誘われてUNOをやっていたのだ。UNOとはトランプのページワンというゲーム専用のカードだが、枚数を108枚に増やしてあるので10人くらいまでプレーできる。何でもそれ専用の道具を作ってしまうというのは不器用なアメリカ人的な発想で、あまり好きになれない。やっぱり僕としては何にでも応用の効くトランプで99なんぞを・・・えっ、それもオーノー99という専用のカードがあるんだって?
 しかし、UNOの108枚というカードの枚数は象徴的であった。仏教でいう煩悩の数。この一行はヒマになるとすぐに車座になってカードを配り始めるという怪しい行状をシベリア各地で繰り広げて行くことになるのである。『シベリア鉄道UNOの旅』・・・ツアー名が変更になった。